救世主(?)のQちゃん2010年10月17日 23時03分36秒

Qちゃん2

 愛犬レオを亡くしてから1年以上が経過した。何となくポッカリ我が家に空洞ができ、それは簡単に埋まるものではなかった。そんな気晴らしから9月初め頃から毎週日曜日に、妻と車で10分程度のディスカウントストア内にあるペットショップに犬を見に行くようになっていた。と、言ってもまた犬を飼うという意図ではなく、あくまでも見に行くだけであった。

 今は世の中、不景気で、会社も何とも先行き不透明であり、給料は減ることはあっても増えることはなく、ボーナスとて出ないことも十分にあり得る状態である。そんな状況から、家のローンもつい先般、ボーナス月払いを止め、毎月均等払いへの変更手続きをとってきた。

 だから、また犬を飼う…などというのは夢のまた夢のごとくだった。毎週日曜日にペットショップに犬を見に行っても、その可愛らしい仕草に一時癒されつつも、その反面、もし万が一「出会って」しまったらどうしよう…という不安もあった。人との出会いもそうだが、全て出会いはある意味では直感的なものがある。

 かつての愛犬レオも、妻がひと目見た瞬間に何か惹かれるものがあったとのこと。もし、そんな犬に出会ってしまったら、動揺するのは自身でもわかっていたから、その意味では犬を見に行っても不安があったのである。

 そんな時、ペットショップではあまり見かけない犬種がいた。札を見ると、イタリアン・グレーハウンドと書かれており、2010年5月12日生まれとある。すでに生後5ヶ月経過した犬だった。そのためか値段は5万円となっていた。他の犬がほぼ10万円前後の値段の中でひときわ安価である。しかも、よく見るとそのイタリアン・グレーハウンドの左目上には何やら体毛がハゲたような部分がある。だから5万円なのか、それでも売れないかもね…妻と話した。

 今はどうなのかよくわからないが、以前耳にした話ではペットはある程度の月齢までいっても売れない場合には処分されてしまう…という残酷な運命とのこと。このイタリアン・グレーハウンドも生後5ヶ月経過し、5万円で、しかもハゲがあるという「商品」として言うなら「欠陥商品」ゆえ、きっと売れずに…などと考えると、妙に気になって仕方なくなった。

 かといって、可哀想だからなどという感情だけで、じゃあ我が家で飼おう…などという余裕はまったくない。犬を飼うということは家族が1人増えるのと同様である。思案した。そしてふと思った。準備が整うまで待って、とか、その時期になったら、などと考えていたら多くの場合、そんな時期は来ない。万全の状態など待っていたら、それはいつになるかわからない。下手をすればわが身の方が先に尽きてしまうかもしれない。犬の平均寿命を考えたら、どうせ飼うなら早い方がいいに決まっている。

 だいたい、人間などその環境に置かれれば、その環境の中で何とかするように工夫するものである。生活が苦しいなら、それなりに節約もせざるを得ないし、我慢すべきは我慢するものである。最後はもう「え~い!」という気持ちだった。それに犬が存在することによって家族全員がそれなりに協力する姿勢が出てくればいろいろな意味でプラスではないか。

 …そしてついに決断した。10月9日、我が家にふたたび愛犬がやってきた。名前は妻と息子と3人で四苦八苦の挙句、Q(キュー)と命名した。Qというと、筆者の年齢ではオバケのQ太郎とか、ウルトラQとか浮かぶ。マラソンの高橋尚子さんの愛称がQちゃんだった。キューリのキューちゃんなんかも浮かぶ。しかし意図は、素早い動きのquickと映画やテレ
ビの撮影などで監督がスタートの際に合図する「キュー」というところからである。

 1年ほど前までいてくれたレオのようなパピヨンとはまったく異なる犬種ゆえ、犬を飼う素人ではないつもりだが、それでも犬種が異なれば、わからないことだらけである。我が家で、レオの終末期に体験したのとは異質とはいえ、またバタバタの日々が始まった。しかも家に来た日からひどい下痢で、翌日には早速病院に行く羽目になり、おまけに餌を食べている最中に突然、歯が1本抜けた。乳歯だから抜けるのも当然なのだが、「キュー」という合図とともに始まったのは、バタバタの混乱であった。

 それでも家族には、しばらくなかった「笑い」が戻ってきた。生後5ヶ月経過してしまっているから、しつけも結構手間がかかる。それでも妻はあまり自由にならない両手ながら懸命に世話をし、息子もかつてのレオやポッキーの幼犬時代は自分も子どもだったゆえ、いまいちピンと来なかったようだが、今や20歳の成人である。無性に可愛いようであり、またQちゃんもよくなついている。だから息子もそれなりに考えであるようである。いいことなのである。

 筆者は世帯主として、またまたズッシリとした重荷を背負うわけだが、それとて犬のいる生活を考えれば、例え会社でどうこうあろうが、何とか頑張ろう!という気持ちになれる。もしかしたら、Qちゃんは我が家の救世主のキューちゃんになるかもしれない。ラッキードッグかもしれない。

石野田奈津代「60億の涙」コンサート2009年10月04日 08時59分20秒

石野田奈津代コンサート

 9月27日(日曜日)、横浜BLITZで行われた石野田奈津代さんの「60億の涙」コンサートに行ってきた。この件に関しての詳細エッセイは筆者の運営する「ともだちMUSEUM」内の管理人室の「徒然エッセイ」第43話として公開しているので、そちらをぜひご一読いただきたい。

 その文章をそっくりそのまま、このブログで公開するというのも芸がないし、かといってエッセイとしては長い文章をダイジェストにしてブログ公開というのも、やはり内容に無理が出ると思うゆえ、このブログでは多少、重複する部分も発生するが、むしろ前回このブログでアップした石野田奈津代さんの最高峰名曲ともいうべき、「永遠」について記してみたい。

 前回のブログでも記した通り、「永遠」という曲は歌詞もメロディも素晴らしい曲である。知っている方には何の説明も必要ないが、石野田奈津代…って誰?「永遠」なんて曲、知らないよ…という人のために、記したいと思う。

 歌詞を聴けば、この「永遠」という歌が失恋をテーマとしていることがわかるだろう。失恋というのは、ほとんどすべての人が必ず経験する何とも切なく、苦しいものである。一体なぜ人間というのは、人を好きになるのだろうか?その思いは、一体なぜ、こんなにも燃え上がってしまうものなのか?

 そして、それゆえにその思いが破れた時は、大きな精神的ショックを受ける。もちろん、恋愛の度合いやショックの度合いも人それぞれゆえ、何ともいえない面も多々あるが、強烈なショックを受けるものである。

 石野田さんのプロフィールを読むと、当初は小・中学校でイジメに合い、見返してやる!という思うで歌手になってやる!と決意したそうである。そして、その後、詳細は不明ながら大恋愛をし、その相手の浮気が発覚し、失恋という痛手を負ったようである。こうしてコンパクトに書いてしまうと、さっぱりその経過等も不明で理解もし辛いが、もちろん筆者もご本人から詳細を聞いたわけでもないゆえ、あくまでもプロフィールに記されていることを書くしかない。

 その失恋のショックから、その思いを作詞・作曲という音楽にぶつけて表現したという。コンサートの曲の合間のコメントでも自身のそうした失恋のことはごくコンパクトにだったが話していた。「永遠」という曲の詞を読むと、確かにそうした思いが見て取れる。「何年経っても きっと思い出す あなたを」…というフレーズは2度繰り返されているが、今現在はともかくとしても、この曲を作った当時は失恋しつつも未練が残り、ふと思い出したように過去の楽しかった日々の記憶が押し寄せてくるのだろう。

 コメントで彼女は、「忘れられないことは無理に忘れなくていいと思う」というようなことを言っていた。筆者もまったく同感である。人は人生を生きていく上で、何度も大きな悲しみに遭遇する。その渦中にいるときは、あまりの絶望感に打ちのめされ、生きることすら辛くなることもあるだろう。

 しかし、多くの人はそれでも生き延びる。それは、悲しみの感情や記憶は時間の経過とともに薄れていくからである。時間がすべてを解決する。もちろん、立ち直っても、またふとした瞬間に鮮明に蘇る記憶に絶望的に悲しくなる時が来る。

 しかし、それもまた時間の波が少しずつかもしれないが、遠くへ押しやってくれる。そんなことを何度か繰り返し、あれほどの悲しみや絶望感は、いつしか笑顔で話せるようになる。悲しみや苦しみは決して一所に留まることはない。だから人はみんな生きていける。

石野田さんは当人にしか決して知ることのできない悲しみを体験したが、それは結果的に人の心を激しく揺さぶる名曲に結実させた。悲しみがあったからこそ、生まれた曲である。疑似体験や想像でものを創り出すことは不可能ではない。が、実体験に裏打ちされた言葉やイメージは、何よりも強烈なインパクトを持っているものである。

この「永遠」の素晴らしさは、歌詞は確かに失恋した悲しみから立ち直ろうともがいて、回復の兆しがありつつも、ふとしたことで過去の記憶が呼び覚まされ、狂おしいほど切ない思いを抱き、その自分の感情はきっと何年たっても、いつまでも心に染みついているだろう…というネガティブかつノスタルジックだが、曲調は決して暗くない。

 いや、むしろ希望に満ち溢れるごとく明るささえ感じる。プロモーション・ムービーでも海辺で女の子が心の中は悲しいが、精一杯笑顔を作っている様子がクローズアップされている。

 多少、無理をしているかもしれない。やせ我慢かもしれない。でも、精一杯、笑顔を作って、がんばって生きていこう…という、悲しみに沈む人たちへの応援歌なのである。もし、これでメロディが限りなく暗く、沈んだ旋律だったらただ単に悲しみに沈み、恨みつらみしかイメージできないだろう。それが、爽やかさすら感じさせる美しいメロディによって、精一杯の生きる決意をにじませているように思える。

 石野田さんのことをメディアは「泣かせるシンガーソングライター」というキャッチフレーズで取り上げたらしいが、まぁこうしたキャッチフレーズは、あくまでもPR目的であり、印象に残るネーミングをするものゆえ、何とも言い難いが、「泣かせる」ということを説明するなら、それはやはり実体験が歌詞に表現され、それを美しく爽やかなメロディが包んでいるから、聴くものにとって心に響いてくるのだろう。

 世の中には感動的で、人の涙を誘うフィクションはたくさん存在する。しかし、どんな些細なことであってもノンフィクションを凌ぐフィクションは存在しないと筆者は考える。

 「永遠」はそのテーマが失恋…かもしれないが、その内容は失恋に限らず、悲しみ、苦しみ、絶望…すべてに置き換えて聴くことができるのではないだろうか?勝手に下手な分析をして、勝手に記しているゆえ、もしかしたら、作者である石野田さんがこの文章をご覧になったら怒るかもしれない。

 が、作品に対する捉え方は十人十色であり、解釈の仕方は自由である。心を揺さぶられることに変わりはない。「永遠」という曲で表現されている世界がまったくピンと来ない人がいるとしたら、その人はある意味では幸せであり、またある意味では不幸である。

 長々と自分勝手に石野田奈津代さん作詞・作曲の「永遠」を分析もどきに説明してきたが、そもそも音楽に限らず、美術や芸術などのクリエイティブな作品というものは、それを理屈をこねて解説したり、理解したりするべきものではない。

 聴いて感動すれば、それは名曲なのである。感動するということは心が揺れ動くことである。こみ上げてくるものがあることである。まだ、「永遠」という曲を聴いたことのない方は、ぜひ一度でいいから聴いてみてほしい。きっと心が動かされるはずである。人間としての心を持っていれば必ず何かを感じるはずである。自信を持っておすすめできる名曲である。

石野田奈津代さんの名曲「永遠」2009年09月21日 00時03分34秒

永遠DCジャケット

 筆者は自宅から最寄り駅までは自家用車を使用して日常通勤しているのだが、その車中は必ずラジオを聴くことにしている。別にPRするわけではないのだが、聴くチャンネルはTBSラジオ1本である。

 これには訳があって、アンテナの具合のせいなのか、電波の状況のせいなのか、なぜかTBSラジオがもっともよく聞こえるからいつの間にかTBS専属リスナーとなってしまったのである。

 かつては、勤務先まで車通勤だったが、朝は早かったので生島ヒロシさんの番組、森本毅郎さんの番組と聴きながらが日課だった。そして帰りは野球中継があるときはTBSナイター中継を聴き、野球がないときもTBSラジオである。夜はほぼ必ずバトルトークラジオ「アクセス」を聴いている。

 そんなある日、数ヶ月前の番組(何という番組か、忘れてしまったが)でゲスト出演して、その番組の中でミニライブを行ったのが「いしのだなつよ」さんというシンガーで、その時は太田裕美さんのかつての大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」をギター1本で歌ったのだが、これが結構いい感じで、うろ覚えで「いしのだなつよ」という名前を記憶していた。

 最近になってTBSラジオでこの「いしのだなつよ」さんのコンサートのCMや「60億の涙」というアルバムのCMをよく耳にするようになった。そしてそのBGMで流れている曲…これが何とも切ない曲で強烈な印象に残った。こうしたCMで曲を流す場合、決まって曲のサビの部分を流すのだが、1度聴いた時からとにかく気になる曲となった。

 久々に耳にするいい曲である。今はインターネットで検索すれば、ちょっとした情報さえあれば、それをキーワードとして調べられる。 早速、「いしのだなつよ」で検索して、「石野田奈津代」という漢字がわかった。そしていろいろな曲がリストアップされたが、はて?ラジオで聴いたあの切ない曲はどれだろうか?印象に残っているキーワードは「夕焼け雲」だった。

 ネットで彼女の曲の歌詞を順番に調べて、「夕焼け雲」というワードが入っている曲を調べた。 …と、見つかった!どうやらこの曲らしい。「永遠」というタイトル。いろいろと調べると動画配信サイトで「永遠」のプロモーション・ビデオ動画を大人気のYouTubeで見つけた。早速見てみた。間違いない!この曲だ。

 電車の運転席から始まるこのムービーは歌詞のイメージをそのまま表現しているストーリーである。それにしても…何と切なく、それでいて心を震わせるようないい曲だろう…。こんな風に感じた曲は本当に久しぶりである。何度そのムービーを見直し、曲を聴き直したかわからないほどである。

 こんな素晴らしい曲を歌っている石野田奈津代という人はどういう人なんだ?…早速ネットで調べると、いろいろ挫折も味わってきたようで、今回メジャー再デビューとのこと。そういえば、数ヶ月前にラジオで聴いた時にもそのようなことを言っていたが、はて?再デビューって、一体どういうことだろう?と思ったものである。

 プロフィールを読むと、路上ライブなどを経て、のし上がってきた苦労人らしく、紆余曲折の人生を歩んできているようである。 筆者のように、つまづきばかりの人生には共感できる面も多々あるようである。そうした苦労と地道な音楽活動が、徐々に人々の心に響き、テレビや新聞など様々なメディアで「泣かせるシンガー・ソングライター」として取り上げられ始めたとのことである。

 ふ~む…確かに「泣かせる…」と言えるかもしれない。試聴で彼女のほかの曲も聴いてみたが、筆者にはこの「永遠」が最高にいい曲である。

 それにしても…世の中にはよくある傾向だが、なぜこのような素晴らしい曲を作詞・作曲し、歌唱するシンガーがもっと脚光を浴びないのか?思い起こせば、石川優子さん、倉橋ルイ子さん、森川美穂さん…。筆者が非常にお気に入りだった女性シンガーだ。

石川優子さんはチャゲとのデュエットの「ふたりの愛ランド」でちょっと脚光を浴びたことはあったし、森川美穂さんもアニメ「ふしぎの海のナディア」の主題歌「Blue Water」でちょっとは名前を売ったことはあったが、決して超メジャーなシンガーとはなれなかった。

 倉橋ルイ子さんなどは多分ほとんどの人が誰それ?…という感じだろう。「ラストシーンに愛をこめて」という筆者に言わせればバラード曲の最高峰の1曲に挙げられる名曲を歌った実力派歌手だったのに…である。 この3人も歌唱力は素晴らしいものだった。決していわゆるアイドルではないが、歌唱力は抜群だった。いい曲も歌っていた。

 世の中でヒットする曲は、もちろんそれなりの要素があるからだろうし、曲に対する好みは十人十色ゆえ、何とも言えない面も多々あるが、少なくとも筆者は歌詞を大切に扱い、その歌詞を十分に際立たせる旋律の曲が好きである。もちろん、シンガーである以上、カラオケで熱唱する程度のものではプロとして困るわけで、やはり抜群の歌唱力がなくてはダメである。

60億の涙

 今回、ここに紹介する石野田奈津代さんというシンガーソングライターは、久々に筆者を唸らせた人である。特に「永遠」という曲。いわゆる透明感のあるような声質ではないが、この曲を歌うには、この声質しかない…というまさに完璧にすべてがマッチして、切ないストーリーを歌っている。メロディーも切なすぎる。心に響きすぎる。

 何で、このような名曲がもっと脚光を浴びないのか! 実力派シンガーをもっと表舞台にのし上げてあげないのか?何とも世の中の理不尽ささえ感じる。

 もっとも、こうした傾向は歌の世界に限ったことではなく、ほとんどの世界であることである。チャンスさえあれば、世に出ていけるだけの十分な力を持ちながら、たまたまそのチャンスがないばかりに埋もれている才能はあまりにも多い。

 まぁ、ファンというものは面白いもので、ひそかに発掘したアーティストを賞賛し、なぜこのような人が埋もれているのか?…と不平を言いつつ、メジャーになってしまっては、こっそり自分だけで応援していたのが世間一般に広く知れ渡って、自分からかけ離れた存在になってしまうことにもちょっぴり抵抗感を持つものである。

 それでも、やはり素晴らしいものは素晴らしいし、いいものは広く世間に認知されるべきものなのだ。 石野田奈津代さんというシンガーは、その賞賛を受けるだけの挫折と努力をしてきた人であり、何よりも心を揺さぶる素晴らしい音楽に対する才能を持っている。

 何をいまさら…と石野田奈津代さんファンはお怒りになるかもしれないが、ファン新参者として、まだ石野田奈津代さんというアーティストを知らない人に、ぜひその素晴らしく、切ない、心を揺さぶるメロディと歌詞と歌唱力を聴いてほしいと切望する次第である。

 ちなみに「永遠」のプロモーション・ビデオはYouTubeで視聴できるので、ぜひ一度、ご覧になっていただきたい。

 また、石野田奈津代さんの公式サイトでもコンサート情報や新譜情報なども公開されており、ブログも開設されているので、ご来訪してみていただきたい。
石野田奈津代公式サイト
石野田奈津代公式ブログ

エサあげおじさん引退へのカウントダウン~最終回~2009年07月06日 23時55分00秒

電線に止まるハトの群れ
◆エサあげおじさんは永久に不滅です!◆
 ついにこの日が来た。今までも任意引退か?とか記した割には復活したりしたエサあげおじさんだったが、今度ばかりは誇大広告ばりではなく、どうやら完全に引退を余儀なくされた…と言うべきだろう。

 一体突然何故…この文章に先立って、エサあげ業務中に突発的に発生した事件を記した。そう、エサあげ業務を開始した早々に発生した2羽のハトがからんでしまった一件である。

 詳細はその文章をご一読いただきたいが、エサあがおじさんとしては、今まで触ったこともないハトで、少々怖い気持ちもあったが、エサあげが蒔いたタネとばかりに責任を感じ、必死の思いで10分近くかけて、恐る恐る片手にハンカチを持ち、片手は素手のままで、何とかからまってしまったハトを救出したのであった。

 その日は自分自身でも、よくぞ野生のハトを触れたものだ…と突発的に発生した事故に対する行動を密かに賞賛し、いざとなればやるもんじゃい!と悦に入っていた。そして同時に第二代エサあげおじさんとしての責務をまっとうした満足感、もし触るのが怖いからとあのまま見過ごして立ち去ったら、きっとその後ずっと後悔し、2羽のハトのその後を気にして残りの人生を過ごしただろう、と思った。

 しかし…救出したヒーローと思っていたのは、じつはエサあげおじさん本人だけであり、ハトにとってはどうやら違ったようなのである。 翌日、梅雨時でもありいつ雨が降ってきても不思議ではない状態だったが、その朝のエサあげ業務時間帯は何とか雨も落ちていない状態だった。

 しかし、所定の位置にハトがいない。まぁ、こんな光景は今までもあったゆえ、どこかでハトがエサあげおじさんの姿を認知すれば、1羽また1羽と飛来してきて、あっという間にいつもの数のハトが集まってくるはずだった。

 ところが、エサあげおじさんのポジションからちょっと離れた場所に飛来したのは4~5羽のみである。まぁ天気もこんなだし、仕方ないか、業務を開始すればどこからともなく10数羽のハトが集まってくるだろう…と思っていた。

 そして、いつものように細かく切ったパンをひとまきした。…しかし!何やらそこにいる4~5羽のハトは遠慮しているように寄ってこないではないか。それでもちょっと時間がたつと、何となく恐る恐る散らばったパンを食べ始めた。しかし、どことなく変である。

 そして、次の2投めを投じようとしたその行動に、驚いたように4~5羽のハトはバサバサと羽根をはばたかせて飛び去ってしまったのである。そして、もうふたたびその場所には戻ってくる気配がない。離れた電線の上に止まっていた他のハトたちに合流して、そのままである。 アスファルト上に散らばったパンを、ラッキーとばかりに雀がくわえて飛び去っていく。

 エサあげおじさんは愕然とした。離れた電線に止まって、じっとしているハトたちは、本来なら所定の場所に飛来してくるはずの数である。 その様子はまるで、エサあげおじさんに近づいてはいけない、食べてはいけない、無視しろ…という命令に従っているようにさえ思える。

 そ、そうか!エサあげおじさんは何となく恐る恐る食べていたハトたちのいつもとまったく違う様子の理由を推測し、そして理解した。ハトの群れにも多分ボス格のハトが存在し、エサあげおじさんに近づいてはいけない、食べてはいけない…という絶対的な命令が出ていたのである。

 そんなバカな!エサあげおじさんはうろたえた。一体なぜ、私がこんな目に遭わなくてはならないのか?私はからまってもがいていた2羽のハトを救出してあげたヒーローのはずでは?

 そう、確かにエサあげおじさんの中ではハトを救出したヒーローである。もし、この一件を最初から最後まで見ていた人がいたら、やはり同様に、なんてハトを可愛がっている心優しいおじさんだろう…と賞賛してくれるに違いない。

 しかし、それは人間社会でのことなのだ。ハトの世界では、認めたくないが、ハトを虐待した野蛮な人間というレッテルを貼られてしまったのであろう。もがいているハトをやっとの思いで離すことができたあと、もしかしたらどこかケガでもしていないか、気になり別々の方向にいる2羽のハトを確認した。

 足がからんでしまった方のハトは、とくに足を引きずる様子もないし、大丈夫だった。首のあたりに毛に足がからまってしまったもう1羽のハト…こちらの方が非常に心配だったが、とりあえずあの時は別の方向に向かって通常通り歩いていたし、毛がからんでいる時に一番心配した、もう1羽のハトの足のツメがのどに突き刺さってしまっているようなこともなかったのは確認した。

 もしかしたら、あの後、後者のハトは死んでしまったのだろうか?とふと思った。いや、そんなことはないはずだ、と否定しようにもその確認もできるはずもない。少なくとも救出の最中に確認した限りではケガをしている様子はなかった。

 むしろ、最も心配だったのは、もしあのまま見捨ててその場を立ち去っていたら、誰かがからんだ状態から解放しない限りは2羽とものたれ死にしたか、最悪動けない2羽にカラスが襲いかかってくるかしかなかったはずである。

 とにかくエサあげおじさんとしては、人間として、エサをあげた当人として、最大限の責任を果たしたつもりであった。しかし、様子を見る限りではハトたちにはそうは思われていないようだ。今まで、大挙して飛来してきたハトたちは、まったく手のひら、いや羽根を返したかのごとく、完全にエサあげおじさんを危険人物として認識してしまったようである。

 その群れの中には助けたハトはいないのか?いるなら、ちゃんと他のハトに説明してくれ!エサあげおじさんは心からそう叫びたい思いであった。

 しかし、いかんせんハトの世界のことは皆目わからない。ただ、統制が取れたそのハトたちの様子は、明らかにエサあげおじさんに対して今までのような親密さのかけらもない。エサあげおじさんは、仕方なく、その日のパンを持ち帰り、明日また試してみようと思った。

 しかし翌日は雨、次の日も雨…いつもの場所を通り過ぎつつ、電線を見ると、こんな雨の中にも関わらず、10数羽のハトはじっと止まっている。その光景はまるで仲間に哀悼の意を表しているようにすら思える。

 そして週末となった。雨は降っていない。もし、この日も同様なら、完全にハトたちはエサあげおじさんを敵視し、もう2度と近づいてこないだろう…、そうなったら残念だがエサあげおじさんは引退するしかない…と覚悟を決めて、所定の位置についた。

 しかし!やはりハトたちは電線に止まり、ほとんど動かない。別の場所でウロウロしていた2~3羽のハトが、もしかしたら近づいてきてくれるのでは?というかすかな期待も見事に裏切られ、それらもエサあげおじさんのそばに来ることはなく、飛び去って電線上のハトに合流した。

   決定的である。あまりにも意外な形でエサあげおじさんは引退勧告を受けたのである。リストラである。懲戒解雇である。

 それにしても…。エサあげおじさんとしては当然、納得できることではない。ハトを虐待するどころか、救出したのである。触ったこともない野生のハトを勇気を振り絞って助けたはずである。紛れもなくこれでは冤罪ではないか!

 しかし、いかにエサあげおじさんが人間社会の意識や常識で訴えてもハトには届かない。ハトからすれば、多分2羽のハトを虐待した凶悪犯罪者なのであろう。

 この日は前日まで雨などもあり、あげることができず、持参したものの持ち帰りとなってしまったパンもカビが発生してしまい、全て捨てて、買っておいたハト専用のエサを持参していた。しかし、それも無駄になってしまった。

 正式に第二代エサあげおじさんを襲名した日は定かではない。ただ、かれこれエサあげ業務を開始してから2ヶ月以上は経過していたかと思う。別に恩をきせるつもりは毛頭ないが、日曜日には自身のパンを買うと同時にハト用のパンもわざわざ購入していた。

 そうしたことも、全てあの2羽のハトがエサの奪い合いをしてだろうが、からまってしまい、バサバサともがいた一件で消えてしまった。救出したにも関わらず、エサあげおじさんはハトたちからエサあげじさんという業務を解雇されたのである。

 …結局、こうなってみると、ハトたちは間違いなくエサあげおじさんの姿を認知していたことになる。そして、ハトは集団で生きている中で、非常に統制が取れた鳥なのだということを知った。

慣れなれしく人間に近づいてくるハトだが、それでも悪人は正確に見極め、例えエサを与えようとしても、そういう人間には決して近づかない野生の本能を持った賢い鳥であることを知らされた。

 多少の未練はあるものの、ハトにそうした固定観念を持たれ、見事な統率によって決して近づいてこない以上、いかにエサあげおじさん業務継続を望んでも、無駄である。ゆえに、無念ではあるが、エサあげおじさん引退をここに表明する次第である。

エサあげおじさん引退へのカウントダウン~その2~2009年07月05日 19時10分09秒

◆突発的な出来事◆
 週明けの月曜日のことである。エサあげおじさんは、また今週も業務を遂行すべく、その日の朝もいつものパターンで所定の場所に向かった。

 天気はよく、結構な数のハトがおじさんではなく、朝食を待って待機していた。ふぅ~む、こうして待っていられるとエサあげおじさんとしても業務のやりがいがあるというものである。さぁ、では本日の朝食ですよ~とリュックに持参した細かく切ったパンをさっと一まきした。いつものように我先にと一斉にハトが群がる。

 …その直後のことである。2羽のハトが激しく羽根をバタバタさせている。はは~ん、エサの取り合いをしてケンカでもしているのか…と思いきや、どうもそんな状態ではない。もがくように2羽が羽根をバタバタさせて転がっている。その様子に周囲に群がっていたハトは一斉にその場から飛び去って、離れた電線の上に行ってしまった。

 エサあげおじさんも、一体どうしたのか?さっぱりわからず、2羽のバタバタしているハトを見ると、どうもどこかで何かがからまってしまったようで、2羽が離れられなくなってしまったようなのである。

 こんな状態に遭遇したのはもちろん初めてであり、どうしらいいのかもわからない。かといって、このまま放っておけば、2羽は離れることができず、もがいて地面を転がるばかりである。遠くで見ているのだろうか、カラスの不気味な鳴き声が聞こえる。放っておけば、やがて動けなくなるだろうし、カラスが狙ってくるかもしれない。

 エサあげおじさんは意を決して、救出に立ち上がった。しかし、第二代エサあげおじさんを勝手に襲名したとは言え、ハトの扱いの慣れているわけではない。だいいち、ハトなど触ったことすらない。しかも2羽はもがき苦しんでいるのである。

 最初は恐る恐る、片手にハンカチを持ち、どこがどうからまっているのか見つつ、ちょっと触ってみたが、そう簡単に2羽を離せるような状態ではないようだ。2羽はお互いに羽根をバタバタさせて、離れようと試みるのだが、ダメである。1羽の足のあたりにもう1羽の首周辺の毛だかがからまってしまっているようである。

 エサあげおじさんは、もうこうなりゃ何とかするしかない、とばかり、懸命に2羽のからまっている部分をハンカチで解きほぐすようにしつつ、首のあたりが辛そうなハトを気遣い、懸命の救出作業を続けた。

 近くのベンチに腰を下ろしている人もいたが、まったく無関心である。 昨日の雨で水気があるアスファルトの上で羽根をバタバタさせるものだから、エサあげおじさんの顔にもそのしぶきが当たる。メガネにも水滴がつく。

 2羽のハトはエサあげおじさんが自分たちを救出しようと試みてくれていることを多少は理解しているらしく、からまった部分を解きほぐそうとしている時はおとなしくしていてくれる。

 そうしているうちに徐々にからまっている部分もよく見えるようになり、前になっているハトの足のツメが後にいるハトの首あたりに突き刺さっていないことを確認し、何度かちょっと力を入れて引き離そうとし、ある程度まできた段階で、もしかしたらちょっと痛いかもしれないけど我慢しろよ、とばかり力を入れて2羽をさっと引き離した。

 その瞬間、見事に2羽は離れることができた。ふぅ~と一息つき、エサあげおじさんが2羽の様子を見ようとすると、前にいたハトは特に足を引きずるようなこともなく無事である。後方にいたハトは、と見ると、反対方向に見る限りでは問題なく歩行していた。

 その間、約10分たらずだろうか?ハンカチはびしょびしょになり、一巻きしたパンもそのままである。群がっていたハトたちは、相変わらず電線に止まったまま、こちらに来ようとはしない。そんな突発的事態が発生したために、その日のエサあげ業務は中止となった。散らばっているパンを見つけて、ちゃっかり雀が食べていたりする。

 もし、そんなこの日の一部始終を見ている人がいたら、あのおじさんは一体何をしているのだろう?と思ったことだろう。野生のハト2羽がもつれるようにバタバタともがいているのである。何ということだ!…ふと思いつつ、本当によかったと安堵した。

 そもそもエサをあげているのは私なのだ。エサを奪い合って、からまってしまったのはハトの自己責任かもしれないが、少なくともエサをまくようなことをしなければ、その2羽のハトがそんな状態になることもなかったのである。

 もし、ハトなんて触ったこともないし、どうしようもないから…と知らんぷりして、その場を去っていたら、きっとずっと気がかりだっただろう。最悪の場合、死んでしまったり、動けない状態でカラスの餌食になってしまったりしたら、それこそ筆者は最低の人間である。

 出勤の時間もあったため、2羽を救出して、ちょっとその場で様子を観察して立ち去ったが、とにかくよかった!やるべきことをやった…と安心するとともに、よくぞ野生のハトをあそこまで素手で触ったりできたものだ…と切羽詰った時の自身の行動にちょっぴり驚きでもある。

 2羽のハトはエサあげおじさんが救出したことを理解してくれているだろうか?一瞬にしてその場を飛び去って、電線で待機していた大勢のハトたちは、そんなエサあげおじさんを理解してくれているだろうか?

 …たぶん、そんなことはあり得ないだろう。助けてあげたからどうこう…などということはもちろんないし、おとぎ話の世界なら、その後の展開がおもしろくなりそうな出来事ではあったが、野生のハトである。

 また、次の日になれば、そんな大騒ぎがあったことすら忘れて、朝食に群がってくるだろう。もしくは警戒して、全く近寄ってこなくなってしまうかもしれない。そうなれば、それはそれで仕方ない。第二代エサあげおじさんの事実上の引退ということである。

 朝っぱらから、とんでもない事態に遭遇する羽目になったが、何か自分自身としては、絶対に触ることなどできないと思っていた野生のハトに最大限の努力ができたことが、何か嬉しい気分で、ちょっぴり自分で自分を誉めてあげた次第であった。

※エサあげおじさんは最大限の勇気を振り絞って、からまってバタバタする2羽のハトを何とか救出した。エサあげおじさんとしての責務を全うし、ハトたちからしても仲間を救出してくれた、まさにヒーローになったかとも思えた。ところが…。それは、紛れもなくエサあげおじさん引退へのカウントダウンだったのである。…次回につづく

エサあげおじさん引退へのカウントダウン~その1~2009年07月04日 13時10分38秒

馴れ馴れしいハトのアップ写真

◆挫折・復活、そして…ある衝撃的な事実◆
 しばらくご無沙汰となってしまったが、相変わらずエサあげおじさんの業務は継続中である。もう2ヶ月くらいは経過したのだろうか?まぁ、期間などど~でもいいのだが、しばらくご無沙汰の間にエサあげおじさんとしてはある意味では挫折感を味わい、復活し、また違った意味での衝撃を受けることがあった。

 …こう書くと、何だ何だ?と興味を引く作戦のように見られるだろうが、ど~せほとんど読者もいないこのブログである。(ぽっぽさんは愛読してくれているのだろうか?)

 まずは挫折感の一件から。何ともうっとおしい梅雨の時期である。必然的に雨の日が多くなる。小雨程度なら、何とかエサあげ業務も続行できるかもしれないが、ザーザー降りとなるとさすがにハトはどこかで雨宿りゆえ姿を見せない。

 その日は確かに晴天とは言い難い空模様であった。しかし、雨は降っていなかった。エサあげおじさんがいつものようにリュックにエサを準備して、某駅に降り立ち、いつもの噴水付近を見ると何故かハトが1羽もいない。おや?妙だな?と思いつつ、とりあえずいるものように近くのコンビニで飲物を購入し、所定の場所に到着した。ここで、エサあげおじさんの姿を見つけ、一斉にハトが飛来するはずであった。

 …ところが、その日に限って、所定の位置についたにも関わらず1羽もいない!な、何だ、一体どうしたというのだ?エサあげおじさんは焦った。待つこと2~3分すると、ようやく1~2羽のハトが飛んできた。

 こうなれば、このままエサを持ち帰るわけにもいかない…と、寂しく、2羽のハトにエサをまいた。するとどこで見ていたのか、ようやく1羽、また1羽とハトが飛来した。それでも総勢で10数羽という、いつもに比べると少ない。とりあえずその日は少数精鋭のハトにエサあげ業務を遂行して終わった。

 そして翌日…。今日こそは、と意気込むエサあげおじさんの意欲は完全にへし折られた。またしても1羽もいない!一体、どういうことなんだ?エサあげおじさんにはまったくわけがわからない。野生の動物は天災などを敏感に感じるというゆえ、もしかしたら何かとんでもないことでも起こるのだろうか?

 …と、エサあげおじさんが所定の位置で呆然としていると、前日同様に2~3分後に1羽、また1羽と飛来し、昨日とほぼ同数のハトが集まり、ようやくエサあげおじさんの業務は開始された。それにしても2日も連続してこの状態…エサあげおじさんは、意味不明ながらふと考えた。

 もしかして、新たなエサあげおじさんが出現したのだろうか?はたまたハトたちから戦力外通告を受けたということだろうか?となれば任意引退どころか、自由契約である。リストラである。エサあげおじさんは思った。もし、明日もこのような状態だったら、潔く引退しよう…と。

 運命の翌日、エサあげおじさんが半信半疑でいつものようにリュックにエサをしのばせ、某駅に降り立ち、所定の場所を遠くから見ると、おやっ?打って変わってハトたちがしっかりと待機しているではないか!な、何ということ!エサあげおじさんが喜び勇んで所定のポジションに到着すると、この2日間は一体何だったんだ?と思えるようにハトたちが集まってきた。

 中には慣れなれしく、おじさんの膝に乗ってエサを待っているハトすらいる。何だ何だ、昨日までとは打って変わって、一体どういうこった?…と思いつつ、エサあげおじさんは無性に嬉しく、業務を遂行したのである。

 そして翌日も、週末の金曜日もいつもの通りのハトの群れがエサあげおじさんの周辺に集まって、楽しい朝食のひとときを過ごしたのであった。エサあげおじさんも嬉しさのあまり、ついサービスで自分の昼食用に準備しておいたパンを1つ、エサとして追加してあげてしまったほどである。

 こうして、2日間の摩訶不思議な現象からエサあげ業務解雇を通告されたのでは?と落胆していたおじさんはふたたび復活したのであった。

 そしてその週末の金曜日のことである。筆者が勤務する会社の建物の斜め向かいに2階建て集合住宅があるのだが、休憩にちょっと一服…と外に出て、ふと目をやるとな、何と!白いハトがその集合住宅の屋根の上に止まっているではないか!一瞬わが目を疑った。

 筆者は極度の近視+老眼となってしまっており、通常はパソコン用のメガネをかけているのだが、明らかにあれは白いハトである。羽根にグレーなどが見えないから、間違いなく白いハトである。しばらく姿を見せない白いハトに間違いない…と思われた。そしてそのそばの電線にごく見慣れた体色のハトが止まっている。

 白いハトは屋根からそのもう1羽のハトにそばに移った。ちょっと一緒にいたかと思ったら、白いハトはまた集合住宅の屋根に移り、またちょっとたつと電線に止まっているハトのそばに戻ってくる。…そ、そうか!そうだったのか!エサあげおじさんは納得した。白いハトが忽然と姿を見せなくなったのには、こんな理由があったのか!

 彼氏ができたのか!(注:白いハトの性別は不明だが、筆者はその容姿やしぐさから、多分白いハトはメスだと勝手に判断していたのである)白いハトはエサあげおじさんのえこひいきのエサよりも、そばにいるハトを選んだのである。そ、そうか、そうだったのか!はっきりと確認できたわけではないが、遠くから見る限り筆者には間違いなくあのえこひいきしていた白いハトだと思った。

 そして、その白いハトは幸せになっていたのである。あんなにえこひいきしてあげたのに…複雑な心境になりながらも、見た目にも明らかに夫婦になったかのごとく白いハトともう1羽のハトを筆者は呆然と見つめた。しかし、これはいいことなのである。白いハトにとって、何より大切なのは幸せになることなのである。

 それにしても久々の業務報告となったこの1週間の出来事は、戦力外通告、そして復活を経て、あの白いハトの意外な近況を見かけるという何とも波乱の1週間となったのである。

 それでもまた新たな1週間が始まれば、エサあげおじさんは雨が降らない限り、出勤日には第二代エサあげおじさんとして、また業務を遂行するのであろう。

 …ちなみに、今さらながらの疑問なのだが、すでに2ヶ月くらいが経過した第二代エサあげおじさんの業務だが、今まで皆勤賞のハトはいるのだろうか?あの白いハトのように決定的な特徴があれば、わかりやすいのだが、濃グレー系を主体としたハトはまったく見分けがつけられず、日々エサあげ業務を遂行しながら、ふとそんな疑問を抱いた。

※挫折感を味わい、再度復活し、そしてあのえこひいきの白いハトの「その後」にショックと祝福の念を持ちながら、業務を遂行するエサあげおじさん…しかし、そうした日々は意外な結末に向かうプロローグだったのである。そのカウントダウンを3回に分けて、連続公開したい。…というわけで次回につづく。

エサあげおじさん復活の気配?2009年05月24日 08時03分13秒

久々に姿を見せた白いハト

 前回のブログで任意引退か?と、週刊誌ばりのタイトルで注意を引こうと試みたが、そもそも読者なるものが果たしているのか?という現状ではまったくの一人芝居の様相であった。

 実際のところ、えこひいきしていた白いハトの姿が見えなくなってからもエサあげおじさんはもちろん業務を遂行していたが、やはり何となく物足りなさを感じ、モチベーションの低下から何か口実があれば引退も辞さない…という状況であった。

 もちろん、考えてみれば、このエサあげおじさん2代目を勝手に襲名した際には、白いハトなども存在せず、特定のハトがどうこう…というものではなかった。

 しかし、人間というものは、一度何かの味をしめてしまうと、なかなかその味を忘れることはできなくなってしまうものである。何もわざわざハトにエサをあげる目的で、その以前より1本早い電車で出勤などする必要があるのか?と自問自答しつつも、勝手であろうが2代目を襲名した以上、後継者が出現するか、何らかの事情で業務遂行不可能となるまでは任務をまっとうすべきでは?…などとワケのわからない義務感も捨てきれなかった。

 今週は何となく体調も優れない。やたら暑くなったせいなのか、睡眠時間の配分で失敗しているのか、やたら眠く何となくダルい感じである。そんな週の後半戦となる5月21日木曜日…いつものようにエサあげおじさんが所定のポジションにつくと…おお!な、何と、あの白いハトが!

 一瞬、目を疑った。群れの中には白ベースでところどころに黒やグレーが混じった体のハトもいるゆえ、うっかりそれと見間違えたか?と思った。しかし、紛れもなくあの白いハトである。

 な~んだ!元気でいたのか!よかった、よかった!…エサあげおじさんは独り言のようにつぶやいた。久々に登場した白いハトは何となく、以前よりは堂々と見える。気のせいだろうか?いつものようにエサをまく。すると一斉にハトたちが群がって、われ先にとパンを食べる。

 白いハトは、と見ると、相変わらず押しのけられるのだが、何となく以前よりはその度合いが弱く、群れの中で負けまいとするような雰囲気が感じられる。それでも時々、機を見ては近くに寄ってくる白いハト専用にパンを置く。何となく見ていても以前よりは逞しく感じられた。

 ふ~む、しばらく姿を見せなかったのも、もしかしたら武者修行にでも出ていて、鍛えられたのかもしれない。やはり野生の生き物である。 それにしても、白いハトの久々の出現によって、何やら元気づけられた。あそこまでえこひいきして、気遣っていたハトである。突然、姿を消した後の空しさも再会によって一気に吹き飛んだかのごとくである。

食事後に首を振る白いハト

 考えてみれば、突然勝手にエサあげおじさん2代目を襲名し、業務を遂行し始めてから早1ヶ月半以上経過した。どんなことでも同様なのだが、継続することは結構大変なことである。

 確かに、ハトたちの動作をよく見ていると、なかなかユニークであり、ボ~と観察していてもおもしろいものであり、何となく心は和み、癒されている面も多々ある。そして、ふといろいろなことを考える。

 ハトはどの程度の知能があるのだろうか?エサあげおじさんを認識しているのだろうか?何を考えているのだろうか?いや、そもそも思考能力というものがあるのだろうか?

 そんなことから、いろいろな考えに広がっていく。そういえば、ハトって子どもの頃から今までも日常的によく見かけてきたが、まったくハトに対しての知識がない。古くは伝書鳩…などに使われるように帰巣本能に優れている…というようなことは聞いたことがある。

 しかし、日常見かけるハトにも種類があり、普段はどこに生息しているのか、生態はどのようなものなのか…学問的知識となるとさっぱりであることに改めて気づく。

 そして、それと同時に、思考能力がどうこうということもあるが、生き物であること、つまり大切な命を持って、日々生きていることは筆者と何ら変わることのない事実であることにも気づかされるのだ。

 ちなみに翌5月22日(金)は、残念ながら白いハトの姿は見えなかった。しかし、心なしかたくましくなったように思える白いハトである。また気が向いたらフラッと姿を見せてくれるだろう。

※前回の「エサあげおじさん任意引退か?」の記事に、な、何とコメントをくださった方が!ガ~ン!だ、大大感激です!その名はぽっぽさん。広い世の中、やはりそっと見てくれていた人は存在していたのですね。本当にありがとうございました。

新作CDムービー「自律神経にやさしい音楽」公開!2009年02月15日 19時14分00秒

自律神経にやさしい音楽

 筆者のメインWebサイト「ともだちMUSEUM」内の「Flashムービー館」で久々に新作をアップした。
 今回のムービーはCD「自律神経にやさしい音楽」である。作曲は、いろいろな面でお世話になっている広橋真紀子さんである。もっとも、この「Flashムービー館」で公開している音楽は全て広橋さんの曲ゆえ、このコーナー自体が広橋真紀子ワールドでもあるのだが…。

 頻繁ではないにしろ、最低でも自身の技術維持、あわよくば向上、そしてイメージ力の維持・向上という意味合いでも、こうしたムービーはある程度の期間を置いてでも制作していきたいと常々思っている。

 時々、広橋さんのサイトを訪問しては、その活動状況を拝見しているのだが、今回もこの「自律神経にやさしい音楽」が新作として紹介されていたので、早速試聴してみた。

 相変わらずの心洗われる作品だが、今回は別サイトで全曲試聴してみて(試聴ゆえ、曲のさわり部分のみだが)、どの曲もまさに自律神経にやさしいメロディであり、創作意欲が沸いてきた。

 今までもそうだが、このムービーはCDジャケットをメイン素材として考える。ゆえにジャケットによっては、仮にイメージが浮かんでも実行不可能かな?と思える場合もある。

 今回、真っ先に浮かんだのは蝶々が飛んでそこから黄色い粉をまいて花を咲かせていく…というシーン。そのためにジャケットではすでに一面に咲いている花を撤去する作業が必要になる。椅子も分離しなくてはならない。背景も別にした方が融通が利きそうである。

自律神経にやさしい音楽CD あとは、毎回ワンパターンになってしまっていた回転するCDの登場の仕方を今回はちょっと変えてみようかと考えた。CDタイトルは「自律神経にやさしい音楽」という漢字が多い日本語ゆえ、今までのようにタイトル文字で何か動作をさせるのは厳しそうである。

 そんな漠然としたイメージで作りはじめたが、やっている途中でいろいろと変更を加える。せっかく登場した蝶々もただ花を咲かせるだけではもったいない…と終盤に再度登場させた。

 エンディングシーンは当初はいつものパターンで、ジャケットの静止画像で終えるつもりだったが、そういえばあの蝶々はどうしたのか?というストーリー性(?)を考え、ジャケット裏面にある画像を使って再度ヒラヒラさせることにした。

 どうせヒラヒラ飛ぶなら、ここでも花を咲かせていこうか、と変更する。 曲は広橋さんの話では「静かな午後」という曲がダウンロードで一番人気とのこと。試しにそれをBGMにしつつ、自身で候補のひとつとして考えていた「風の歌」でも試してみる。その結果、何となく「風の歌」の方が今回のムービーにはマッチしているのではないかと思えた。

 今までのムービーも全てそうだが、曲は後付けである。実際に曲をつけてみると、偶然にも曲のタイミングとムービーがマッチすることがある。曲調に意識を取られると、どうしてもムービーの作りに制約がかかってしまうので、とにかくムービーを先に作ってしまうのだ。だから、使用させてもらっている曲はムービーにマッチしているものを選曲している。(あくまでも主観でだが…)

 出来上がってみると、なかなかではないかと自負している。ゆっくりと流れ行く雲をバックにCDが半調画像で回転するのも特に芸がある表現ではないが、とりあえず従来のワンパターンからは脱却した。蝶々が花を咲かせるシーンもまぁ満足できる状態である。草花と椅子と背景の分離も何とかうまくできたようである。

 このムービーは、今までの作品全てに当てはまることだが、やはり曲があってのものである。サウンドデータは重いから、最後に埋め込むが、サウンドがないムービーは何とも間が抜けた感じがする。

 その意味でも、いくつか制作してきたこのCDムービーはクリップビデオのごとく、歌詞のない、こういうサウンドとのコラボレーションはなかなかだと思っているのだが…。

 これで広橋さんのCDがより一層売れてくれれば言うことなしだが、癒しを求めて音楽に耳を傾ける人に、視覚的にも癒しを与えることができれば非常に嬉しいことである。是非癒しのサウンド・ムービーをご覧いただきたいと思う。

◆癒しのCDムービー「自律神経にやさしい音楽」を是非ご覧ください。

癒しの森

広橋真紀子さんの公式サイト「癒しの森」へは上のバナーからどうぞ。